昭和四十五年六月二十五日 夜の御理解
捨て身になる程、強い事はないと。身を捨ててこそ<うかぶしょ>もあり年の暮れと云ったような言葉があるくらいですね、捨て身くらい強いものはない。助かりたいと思うから難しい、死ぬまいと思う心がすでにおかげを頂けん元、いよいよの時は捨て身、これが一番強い。なかなか捨て身なんて事は簡単に出来る事ではないですけど・・・
テレビで座頭市の映画を見せて頂いとりましたら、例えば真剣勝負で切り会う時、そん時まず自分の持っておる物、三度笠を持っておれば三度笠を捨てるでしょ、かっぱを着てるならかっぱを捨てるでしょ。そうしといて、身軽くしといて立ち向かうようにですね、それをちょうど見せて頂いとる時に私が感じた事はですね、捨ててかかるという事。捨て身とまではいかなくても、捨ててかかるという。いろんな問題を捨ててかかる。ですから、これはいろいろ頂かれましょうけれども、いわゆる「我情我欲離れ」とおっしゃるが、我情を捨てる我欲を捨ててかかる、もうこれだけでも大した事ですよね。それこそ我が身が神徳の中にある事がはっきり分かるくらいのおかげが受けられる。ですから、それをもう少し見やすく云うなら、「改まって願え」という事です。自分の改まり、改まらなならんものを捨ててからかかる、だからそこに強いものが神様へ向けなれる訳ですね。 「捨ててからかかる」私は座頭市を見せて頂いてから、そんな事を強く感じた。だから捨て身という事なんかもう、いよいよの時じゃなからなきゃ出来る事じゃないですよね。いつも出来る事じゃないですけれども、それ前にまず雨がっぱを捨てろ、そのかぶり物を捨てろ、遊び人達が喧嘩をする前にまず邪魔な物を捨ててしまうでしょ、それだけに打ち向かいよい訳なんです。
私共がそこで我情を捨ててみよう我欲を捨ててみよう、そして神様に向こうてみる。そこに、神様を本当に身近に感じる事が出来る。だからもう少し手前で申しますと「改まる」これを捨てる。いわゆる改まって願えという事になります。それをいかに神様へ向かう時に勢いというものをつくるから、邪魔になる物をまず捨てるんです。おかげを頂く事の邪魔になるものを・・・・・
先日、私はある人の事をお願いさせてもらいよりましたらね、もうそれこそ、昔のあわしまさんのごたる、何はいる、傘はさげちゃる、バケツもさげちゃるもういろんな物を持っとる。まるっきり、あわしまさんのごたる、あわしまさんのごとあれも欲しいこれも欲しいというてですね・・・あの方の場合、息子さんはたいへんな高給取りなんです。それでも百姓もしござるです。それも親戚、頼んでからしよんなさるですよね。それえ他にいろいろ家もたくさん持って家賃も取りござるです。それで今度麦を少し腐らかせたような事から、「もううちは百姓をやめてしまおうか」というような話も出とるごたるばってん、「いいや、食べる米だけは取らにゃ」と云うてからまだ、云いよんなさるそうです。そればって
それを〔お願い〕さしてもらいよったら、それこそあわしまさんのごとさげてござるとこを頂いた。あまりにも、いうなら欲が強すぎるという事ですよね。だからそげなんば捨てたら楽、息子さんの給料だけでも十分贅沢していけるくらいの
高給取りさんですからね、息子さんは。ですからそれなのに家賃も取りござる、
百姓もまだしござる、いろいろ・・・もう、それこそあわしまさんのごとぶらさげてから、苦しい思いをしござるという感じですけど、なかなかそれを捨てきらん。今晩の御理解を頂いてみて、とりわけそう思うですね。おかげを頂く為には
まずスキッとならな、まず捨てる物だけは捨てといて、そして神様にかかる。これは確かにおかげを頂いていく、手っ取り早い私は道だと思うですね。どうぞ。